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知っている(=悪意)ということはどう証明できるか

人の認識について、裁判上、事実としてどう表現するかについては、なかなか理解が難しいものです。例えば法律上、知っていることを悪意、知らないことを善意といいます。(単に知る知らないですので、良い悪いという意味はありません。)知っている=悪意について主張する必要がある場合、被告は○○を知っていると表現するのでよいのですが、いや知らないよと争われた場合、どう表現するかが問題となります。

〇〇を知っていたから、××という行動をしたとします。例えば、そうですね、今日は雨だと知っているから、傘を持っているというようなものです。日常的な事実として現れるのは、傘を持っているという事実ですね。ところが、傘はいつも車に積んでいて、雨が降ってきたら出してきただけかもしれません。つまり、傘を持っているという事実は、雨だと知っていたかもというものに過ぎません。しかし、雨が降るか知っているか、知らないかという認識自体は目に見えませんので、行動で現れた事実から推認するしかありません。つまり、認識を主張立証するには、傘を持っていることや、彼はニュースの天気予報の時間帯にテレビの前にいたなどという外部からわかる事実を積み上げて、=「ということは知っている」ということを立証する作業を行うことになります。法的にいうと、なにか大層な感じがしますが、お菓子なんて食べてないよと言っている子供の顔にお菓子のカスがついているというのと、考え方は似たようなものです。傘を持っているなどというのは、それ自体が認識をすぐさま証明するわけではありませんので、これを推認する事実として間接事実といいます。この間接事実は、それ自体が立証できなくても、他の間接事実が立証できればいいので、傘ではなくても別に何でもいいのですが、知っているという認識自体の立証が失敗しますと、その認識はなかったものとして裁判では扱われてしまいます。法律の要件として知っていることが要求されるような場合、知っているというような認識自体は裁判用語では主要事実と言われ、最終的な立証が要求されるものです。(立証ができなかったなら、その認識はないもとして扱われてしまいます。)

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