業務トピック

債務整理はクズではない

「借りたものは、きちんと返すべきだ。だから、債務整理など、クズのすることだ」などという意見もあるようです。
しかし、これは大きな誤解があります。
決して債務整理をする方がクズなんかではありません。



自分の意志で借りたんだろという世の中にうずめく自己責任論



債務整理を必要とする方は好きでこうなったわけではありません。
ところが、「自分で借りたんだろ」と言われてしまいます。
借りた行為=自己責任という図式なわけですが、それが本当に正しいのでしょうか。
こういった自己責任論は、つまりは、根底に、行為は自らの意志によるものだという考え方があります。
しかしながら、まず、行為には主観的には大きく二つに分かれます。
意識的行為と無意識的行為です。

人は、のどが渇いたときに、のどが渇いたと感じ、そして水を飲もうと「思ったので」、水を飲むという風に考えられています。
ところが、実際には、そのほとんどが無意識化で処理されていて、意識に生じるのは、本当に最後の最後だといわれています。意識が関与する割合は相当低いのです。
つまり、意志論による自己責任論は、根拠として頼りないのです。


意志論と無意識の問題


意志論は、長らく学問的にも検討がされてきました。
東洋思想では、早期から意志の形成は、外部からの要因が大きいことを指摘していました。
西洋思想では、17世紀頃から意志による決定ができることがかなり言われていましたが、そもそもこれは、それまでの決定論(運命論)的なヨーロッパ思想を否定しなければならないという社会背景がありました。(王政が厳しすぎて、市民の意志決定による政治が望まれた)
19世紀以後、無意識の発見が心理学の分野においてなされるなど、意志論は弱くなっていきます。
さらに2度の世界大戦が起こるわけですが、とりわけ第二次世界大戦では、意志による決定がどれだけできているのかという問題が突きつけられるようになります。意志による政治をした結果、こんなひどいことが起こるのかという問題です。

その後、このようなことが起こった反省から、西洋思想は、さらに意志によってことを克服することを目指すという考えもありました。
一方で、構造的理解をすべきという思想、人間は意識ではなく無意識が先にあるという思想が発展します。

21世紀になり、思想論に科学が追いつきます。
脳科学の発展です。
脳科学の発展により、人は無意識に相当支配されていることが解明されていきます。(90%以上が無意識の世界)
このように、学問的にも意識の世界が小さいことがわかってきたのです。


構造的理解

戦後、資本主義が発展していきますが、資本主義は、外部収奪性という性格を持ちます。
つまりは、外から利益を取ってくるということです。
この形態は、国内→グローバル化と大きくなっていきます。
国内の構造的外部収奪性はイメージが湧きにくいのですが、グローバル化はけっこうイメージしやすいと思います。
最近まで、衣料品などは中国産が多いことを皆さん気付いていると思います。
それが、いまは他の発展途上国に変わってきています。
資本主義は、安い労働力を外に向かって取りに行く性質があります。ところが、中国は経済発展してきた為に、安い賃金での労働力を中国では得にくくなってきた為、別の発展途上国にその動きは変わりました。この構造的な理解から、最後はアフリカだといわれています。アフリカ諸国は経済力が弱く、安い賃金で労働力を得ることができますが、アフリカも発展したら、そのあとはもうありません。他に取りにいこうとしても、もう他にないのです。

こうしたことは、国内でも起こっています。
格差社会と言われて久しいですが、外部収奪性は、国内においても起こり、安い賃金を求められ、非正規雇用が大変増えました。
こういう構造になっていますので、構造的に、お金を持っている人とそうでない人が分かれていきます。その為、普通の暮らしをするだけで、お金が足りないということが普通に起こるのです。


絶対的貧困と相対的貧困

格差がどれだけ生まれているかというのを図る為の尺度として、相対的貧困という言葉があります。貧困というと、ごはんが食べられないようなことを指すと思われがちですが、そういう状態は絶対的貧困といいます。
相対的貧困は、収入の中央値(全員を並べて真ん中の人の金額のこと。平均金額は、全員の収入を足して、全員で割る。平均は大金持ちがいると真ん中が動くので、平均はあてにならない。)の半分を下回ると、相対的に貧困だという指標です。
よく自己責任論で、スマホやパソコンなどがあるから、贅沢しているじゃないかなどと言われますが、そういう話ではないのです。
その国の中で、いわゆる普通というところとどれだけ離れているかというのが相対的貧困という言葉です。暮らせないほどじゃないだろうといわれても困ります。スマホがない時代は、スマホ代はないですよね。今の時代はスマホ代があります。それが普通の基準なのです。
自己責任論を考えるとき、絶対的貧困にあるような人については、同情的ですが、相対的貧困についてはそうでもありません。これは、「私は頑張っているのに、そんなのおかしい」という議論です。
ある人が頑張って得た収入と、他の人が構造的にそれを得ることが難しいことを同列に並べることはできません。
思想論では、「頑張っている→けれど思ったより報われない」と感じることに「価値」を抱くことを、ルサンチマンなどという用語で批判します。
こうした自己責任論的な考えは、債務整理のような法的な支援をすることを拒みます。幸せになってほしくないのです。「自分は頑張ったのに、大変なのだ」に価値を置くためには、それ以外の人が幸せになってしまうと、自分の価値がなくなります。「自分は頑張った。」→「他の人は損しないと、自分が頑張った意味づけができない」という構造になりがちです。
これはこれで構造的にそうなるので、そう思うことは仕方のないことですが、自己責任論は、自分の価値を保存する為に批判を行うという構造があります。
しかし、実際は、相対的に収入を得られないことが、現実に起こるのですから、そんなことを言っても始まりません。困っている人は、現実に困っているから債務整理をする必要が出てくるのです。
それは自己責任論で解決できるものではありません。


破産や債務整理がなぜ法的に認められているか


破産法は、戦前からありますが、その頃の破産法は、借金の責任免除というのがありませんでした。
単純に残った財産を配るだけで、そのあとも債務は残るという制度でした。
しかしながら、戦後に2度の改正があり、破産法は経済的再生を目指すことになります。
この背景として、社会的安定性を社会が求めたということがあります。
破産しても債務が残るとなると、それこそ強盗でもしないと解決できないということにもなりかねません。そうしますと社会は不安定になります。
資本主義は、競争に負けた人に冷たいところがありますが、それに任せていると社会は維持できませんので、お金に困った人には、そのための制度がないと社会も困りますし、ご本人も困ります。
債務整理をすることは社会的な要請なのです。なので、債務整理をすることはクズでもなんでもありませんし、むしろ、払えない状態であるなら、債務整理をして経済的再生をしっかりして、幸せになってほしいのです。それを法は期待しています。
幸せになろうとすることが悪いわけがありません。
債務整理をすることは法が期待したことです。お金のことで思い悩む人が減ることを、法は待っています。



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