現存在(人間のこと)は周囲への配慮的気遣い(中動態的に気を配ってしまう)、顧慮的気遣い(能動的、ケア的)、他人、死への考慮と予期性、歴史性により規定されていく。しかし一方で、人は投企しながら自分自身への固有の可能性へ向かって『到来』するという将来性を有すると言います。
頽落という言葉が何度も繰り返されるが、決意性がなければ、気遣いの嵐に人は時間をそのままに過ぎさせてしまう。痛いところを突かれる。現在化が支配的になっている状態での自己理解は非本来的な理解に留まるのである。
真の反復は過去にあったことを再び主体的に実行し、その体験を生き生きと再現し、積極的に楽しみ、その意義を確認する。反復には自己の固有性を確認し、自己であり続けようとする決意性が含まれている。
このような再帰性が決意だとすれば、青い鳥のようなものは世になく、陰に隠れた(隠したのかも)不安や死を直視するときに自らの固有性が生起してくるのだろう。ありのままと対面するというのもなかなか骨が折れそうです。
あと面白いのが空談現象という指摘。公共圏において他人によって語られることを抵抗なく無自覚に受け入れ、好奇心をもってコピーしてしまい、更には厳密性が乏しくあいまいなやり取りに気が移っていくというネット社会を予見している。
この辺も決意性が関係してそうです。ちゃんとしてないと流されちゃうぞと。