業務トピック

司法書士相談業務 フランス哲学者ミシェル・アンリ

生とは自己に受動的な始原である。わかりやすいのがレヴィナスとの対比で、レヴィナスは主体-自我を根本的に受動的なものとして無限性=絶対的受動的と捉えるが、アンリは自己自身に対しのみの相関的な受動性こそが−無媒介の−絶対的受動的性と捉える。生のたゆまぬ自己到来は外傷的ではないとしレヴィナスを批判する。それは受忍ではないかと。なるほどそうかもしれない。レヴィナスは他者との連関性に主体を探索したが、アンリは生そのものを探索する。情感とは自己-触発であり、恒常的な自らによって触発する生。これを超えるときすなわち生の受苦が自己自身に耐えきれなくなるときに運動が生じる。それこそが欲求。そして活力。
超出の不在が感情を超出し、感情の自己同一性となる。かかる部分は運動を伴わない運動が遂行されるという。それこそが重みのある内容として受容され着来し、過剰を感じる。それが受苦であるなら悲哀。享受なら歓喜。自己は自己同一として強い意味での自己-触発に対し超過であり続ける絶対的主観的生。
それがあるということは、それすらも(自己過剰が)自己の純粋な自己感受に変容可能性を与えているという。だから徹底的に外在でなく内在であると。

超越論的錯覚という言葉。現象学は世界ありきでなく世界を見る私の学問。アプリオリにかかる見方をアンリは徹底するのだが、見る私との対象との隔たりについて問いを持ってしまう。しかし、アンリは対象についても内在するのだとして、そこに生の現象学を見出す。つまりはフッサールの超越論的現象学は錯覚なのだと。となるとラカンについては象徴界の否定と想像界の徹底した肯定になるのではなかろうか。
想像界の徹底はフッサールの間主観性の否定になるだろうし、そうすると世界を統合失調症的に見ていくことになるのではないか。それを危機と捉えることなく、それこそがいのちだとアンリは評するだろう。意外と大事な視点で、誰もはみ出し物として扱われない、取りこぼされないのがこうしたいのちの見方なのかもしれない。

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