我々は事実に基づかず、というか全ては経験できないので、推論的に世界を構築している。推論の根拠となるのは触れることのできる偏った情報であり、階級や生活圏などにも左右される。概念もまた想像の世界。
印象的な記述が「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」というところ。混沌の中から既に我々の文化が定義したものを拾い上げる。それは常に推論に過ぎない。となると、知るということは概念の増加をもたらし、演繹的に見る手段を増やすことなのかも。
ステレオタイプから人は逃げられない。時間は有限だから当たりをつけて判断する。ただそれはただの神話である。それが好意的なものであれば格別、そうでなければ悪い効果を生み出す。かかる認識について不完全なものであると謙虚な姿勢が必要である。自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験に過ぎないことを認める習慣が身に付かなければ、われわれは対立者に対して真に寛容になれない。一部が自分のステレオタイプと一致したら全てをそうだと決めつけてはならないのだ。