主体というシニフィアンとシニフィエを問い直す。subjectは従来、従属を意味した。この意味は臣民などと現代でも見られるが、主たる意味は主体である。その語源はラテン語のヒポケイメノン=下に位置するものである。一方、アリストテレスの定義した基体は述語に規定されない主語そのものである。基体は語源を同一としないsubjectとの親和性が見られ後に転換される。デカルトにおいて内在する基体として実体と呼ばれた。これは当時のキリスト教概念を倒置させるものであり実体とは神を意味したがデカルトは精神とその対象なる身体もまた実体とみなした。さらに決定付けるのがカントの物自体への同置とさらには直感の同置である。即ち、物事の背後にあった基体としての実体は主観の内部に認めることになったのである。こうして従は主に登り詰めた。
関係ないが、わかりやすくすることは、言葉が変わることであり、言葉が変わるとその意味も変換されてしまうこと、まだそれだけならよいが、元々そういうものだと認知され放置されてしまう危険性にドキっとする。
法学は定義性を要求するがそれを日常の用語にしなければ仕事にならないので、それを行うが、意味が変わったことには常々危機感を覚えている。
世間にはわかりやすいを売りにした情報が溢れているが、本来的な意味とは相当乖離しており、そのまま放置されているものだらけである。わかりやすいを謳う本は厳密性を欠いているばかりか誤りをも招いていることに注意が必要。
主語の述語化による主体性の京都学派での発展。アリストテレスと逆で行為が人を規定するというもの。その後の国体や全共闘など組織に飲み込まれる主体性の歴史は悲しく、さらには現代ではフーコーやラカンが指摘するように社会に管理されて主体性は希薄になる。社会に見られていることで動かされる人間。監視社会の中で主体性は死んでいくのか。
心京都学派の和辻哲郎の社会性ある人間像。
人を感性的活動として主体的に把捉し、それを社会的関連の中に置くということは、とりもなおさず「人」を「人間」として把捉することである。「人の本質が社会関係の総体」であり、「あらゆる社会的生活が本質上実践である」
欧米と日本の自由の意味の違いを思い出す。権利がぶつかる限りにおいて自由は制限されるという内在的制約説が日本の憲法学の通説でした(今は少数説です。)。一方、欧米のlibertyは社会全体の利益も範疇に納めており、それが守られることにより個人の自由が本来的に開かれると考えられている。
日本の感覚は自由とは奔放であることです。それが行き過ぎたときに規制を国が行います。問題点は国にやらせると政治的都合が反映されがちであり、市民の独立自治性が失われやすい。一方libertyは勝ち取ったものであり、自治性が重視される。
最終的にお上に任せてしまう日本の方が自由がなくなるんですよね。なかなか自由とは難しいものです。
福祉的支援の主体性の獲得について、被支援者の客体化からの脱却を模索。
従たるものであり続けたsubjectの主体への転倒的理解について。
デカルトは思惟をするものを、我に見た。それを担うのが、身体そして精神。精神それはつまり実体である。思惟が内在する実体は精神と呼ばれる。一方、完全性の制限を含む我々が把捉しない実体は神と呼ばれる。
即ち、デカルトにおいて無限の実体として神を上げながら、人を初めて有限ながら実体としてみなした。これは今となっては当然のように感じられるが、実体を人間に置くというのは神学ではありえないことであった。
加えてカントは主体とは基体、実体としての不倒不変なものとした。さらに実体が現象の中に見られ直観と等置される。このことはいずれも主観の中に成り立つことを指摘している。
これらをもってsubject=服従するものが君臨する王として倒置されることになる。我思うとは主観を構成するのである。
こうしてsubjectは主体性を獲得するのである。
支援は被支援者の客体的な見方を内在する。しかし、それでは被支援者の実存性を奪いやすく、欠損モデル的支援になりやすい。双方に主体性があることをとても大事にしなければならない。