業務トピック

司法書士相談業務 人間にとって貧困とは何か

エンゲルとマズローで隠された貧困がある。

エンゲル係数は食事が占める家計費を基準に貧困を調査したり、マズローは第一段階に生理的欲求を定義したが、実際は恥辱、世間体というまなざしによる貧困の刻印を避けるべく、見える所の支出を優先する(衣服やスマホなど。)。中流に見せねばならないと過剰適応を強いられ、必要な物より、他者への自己呈示と他者からの承認を買い付けさせる。それができないと消費社会のよそ者とされ、汚辱を受ける。消費社会に適さないとみるや、世間はこれを道徳の欠如とみなす。バウマンはこれを「貧困の犯罪化」と呼んだ。その眼差しをさけるため生活保護の利用は抑制され、さらにはステレオタイプな弱者(障害者など)は固定化が要求され、可哀想な存在であることを強要される。昨今はスマホの発達で見られているかもしれないとの不安を煽られ、ぼっちや、便所飯などと貧困者の不安はさらに煽られる。

日本社会は、どの問題の責任をも家族に求める家族主義レジーム(南欧、東アジアに顕著)があり、思い詰める家族は後を絶たない。新自由主義が入って以降その動きは顕著で、ステレオタイプの良い貧者しか許容されず、常に貧者には疑いの眼差しが注がれている。

社会福祉、社会保険、社会保障…。なぜただの「福祉」でなく社会福祉なのか。仏・独憲法には国家は社会的な国家であることが銘記されている。社会的なとは福祉的であり、社会とは貧困に関連する。それに対しサッチャーは社会などないと発言している。福祉は傷つけられやすく、自己負担や合理化の対象として議題の俎上にのせられやすいが、それは実は福祉ではなく社会の不在である。他者との繋がりの否定である。

交換価値に照らすなら、それに能わざれば、人間を無価値にも見ることができてしまう。自分自身、経営者であるが為、努めなければ、人間というものは、利潤性、交換的なものを追求する低い視座を持ちがちであることは実感として知っている。しかし、それは人を人として見ないことの宣言でもあるとも言え、葛藤はあるし、その葛藤は持ち続ける必要があると思う。

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