日常的に享受する特権の多くは意識的に努力して得たものではなく、すでに備えている条件であるため、大抵の人は気づかない。特権を持った側の人間にとって平等とは損失として認識される。人は複数の立場を持ち、違う場面においては特権者になったりそうでなくなったりする。
ウチとソトは相対的にウチが人間的な感じられ、ソトはかれらとして固定観念と偏見が作られがちである。相対的な偏見は残念なことに現実になる。かれらに活動の機会を与えず発展を阻害するからだ。不幸な状態に置かれた側はもともと悪い特性を持ち、報われないのだとされる。そうして努力した分だけ報われるはずだ、公正な世界だという仮説は崩れる。
さらには差別は誰かを社会に受け入れないとするとき、その人が感じる侮辱感、挫折感、羞恥心の問題となる。マジョリティや権力者が単に嫌いなのだと口にするとき、その感情は排除の作用が働く。
多様性とは差異を認めることであり、中庸たろうとするではない。互いに異なることを認めることである。私達という言葉はかれらを前提とする排他性を持つが、絶え間なく私達が作られ解体されることを繰り返しながら葛藤し、数多くの私達が交差して出会う連帯の可能性である。私達は繋がるほどに強くなるのだ。