人は個々の運動から共同目的に向かって注意を払うのであり、個々の運動それ自体を明らかにすることはできない。そのような暗黙的認識において、遠位にある条件の様相を見て、その中に近位の条件を感知する。つまり、近位項から遠位項に向かって注意を移し、遠位にある様相の中に近位項を感知する。しかし、すべからく意味とは私たち自身から遠ざかっていく傾向があり、そうした条件が相まって構成する包括的存在を理解することが、暗黙的認識である。暗黙的認識においてある事物に近位項の役割を与えるとき私たちはそれを自らの身体に取り込み、それ自体を身体の延長して包み込むと内在化する。実存主義的な感覚では了知しえない何かを重視し、それに気づいていく。
問題の解決につき、もし何かを探し求めていることがわかるなら問題は存在しないし、わからないならその発見は期待できないというプラトンがメノンで指摘するが、その答えこそが暗黙知であり、気がついていないだけで存在するという、いわば虫の知らせのような途方もない曖昧なものの認識が存在することを示していると言える。