フッサールを基礎にメルロ・ポンティを絡めた他者の現象学の再構想。視線が合うことを「視線触発」といい、目が合うときに「受動的」に相手の身体性が生成され、直接的に体験される。これには段階があり、触発源の認知をし(視線への気づきという受動性)、その後に相手へと注意が向かう「傾向性」を生み、更に意識として「対人志向性」に発展する。これらが相互に生じることで相手の動きや感情を感じ取る「間身体性」が発生する。間身体性は、私とあなたの運動感覚や情動性といった次元、対人関係の成立といった高次の次元を発生させた状態を生成する。このような段階を経ることが自閉症は苦手で、視線を合わせること自体が苦手になりやすい。
zoomで一方当事者がカメラオフの状態になっているのと似ているなと。カメラオフにされると話者は目線を合わせることは不可能となり、一方で相手からは見られてるという一方通行が起こる。電話ではお互い見えてないので感じないが、zoomだと話者は視線を感じてしまう(触発源)。にも関わらず傾向性、対人志向性、間身体性を発現できなくてストレスフルになるのではないか。zoomで仕切りをするときに、参加者にカメラオフが多いとやたらと疲れるなと思っていたが、間身体性が得られなくて、想像力でカバーしまくるのにエネルギーがすごくいるのだなと思った。よくzoomではリアクションを大きめに取りましょうという。カメラオンにしてリアクションをしっかりすることがとても大事かなと。
フッサールは原印象→把持(消えゆく原印象)→予持(次なる予感)という時間軸の中で、音楽が「幅を持った現在」として鳴ると表現する(※音楽は例示的比喩)。音は瞬間的には消えるにも関わらずそれが音楽として認知できるのは、連なりを持って認知できるからである。初めて聞く音楽(※比喩であるので、ここでは事象という方が近い)は予持が大きな幅をもって未来に開かれており、その受容は創造性の源となる。しかし、その人にとってあまりに予期しないものであれば人は不安に曝され、外傷的ですらある。
予持、すなわち人が未来を予測しているとき、人は未来の予測不可能性をも自覚しているが、もし、その予持がなされず、つまり予測不可能性を自覚しないとき(かつその原印象が破られなければ)そこは永遠の現在となり主観的には時間は流れないことになる(逆にそこを破られれば、極めて侵襲的になる)。
没頭とはこのようなことをいうのかもしれないなと思う。
リズムは分節化されたあらゆるモノを一つに図式化する、いわば空想と知覚を包摂する形の次元であり、身体感覚もリズムを通して間主体性を形成する。情動性と運動感覚の相互反映により浸透的に一つに纏まる。これがなければ棒読み的で一つの記号として成立したとみるのは困難である。イントネーションを通じて論理構造すら意味内容は変化し、リズムを通ずることにより間主観的に共有が無差別に生成される。リズム感あるコミュニケーションは複数間の運動感覚と情動性を、図式化し、間身体化する。噺家の話はとてもイントネーションが練られており、聞いていると流れるようなリズムに身を任す快感さが伴われる。言語がコミュケーション足りえるにはリズムに基づく。
一方で活字にはこういう構造化はない。(LINEの短文のやり取りはリズム化してると思う。日本語は省略とリズム感に長けた言語ではないかと思う。
他者という謎と人称代名詞
①-1運動感覚と情動性→身体表面での表情の図式化
①-2 運動感覚・触覚・身体像の連動→動的均衡
②上記の連動により内面(感情)という実体を想定
③内面性→メディア的錯覚
この錯覚は相手の意図を理解するということ。
その錯覚を自覚するとき、他者とのズレの疑いが不可知として生じるのであり、他者は、私が絶対体験不可能な現実となるわけだが、「あなた」という代名詞で括ることで、便宜上「あなた」としてみなしコミュケーションは果たされる。
一方で不可知的現実という否定性が「私」と「あなた」という奥行きを可能にする。
空気を読むというのはそのことで暗黙知が果たされるわけだが、腹の中は違うかもとも知ってたりする。