「あらゆる知覚はすでにして記憶なのだ。われわれは、実際には、過去しか知覚してないない。なぜなら、純粋現在とは、過去が未来を蚕食していくとらえがたい進展だからだ。」(ベルクソン)
記憶が干渉して現在を覆うので純粋現在は知覚できない。
逆に混在しないならば、つまり記憶がなかったなら、すなわち純粋な知覚ならば、直接的なあり方で対象の実在に触れることができる。これは対象と合一し物質化し時間なるものは存在しなくなる。
著者はその状態を仏教の華厳思想の事事無礙に例える。(世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること。)
しかし、そんないいものだろうかと疑問に思う。寝ぼけて目が覚めたとき、現実が理解できない経験は誰しもあると思うが、その状態は混乱である。
人は経験に於いてものごとを規定し、世界を概念として捉えているのではないか。
ベルクソンは「かんがえるとは概念から事物へいくことだ」とし「知性の習慣的な働きを転倒しなければならない」とする。とすれば通常のあり方は事物ではなく概念の認知において世界を切り取っているのではなかろうか。
記憶のない世界は混沌ではないか。認知症の方の支援をしているときの実感はこちらである。
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