ドゥルーズのヒューム主義によると関係性とはフィクションであると考えてみる。因果性の信念は非意味的接続。
諸々の関係性は自らの項の外部にある。
関係=述語=出来事の論理的アナーキズム。そんな気もしてくる。
メイヤスーによると相関メディアの外部は思考不可能であるそうである。どういう理由でそうなるのかは永遠の問いとなり、超越論的条件のそのまた条件…。レヴィナスの全き他者やラカンの現実界がそれに当たると考える。
他方、ドゥルーズによると世界の全体性を認めない一方、局所的に切断する諸々の偶然性を肯定しているのではないか。有限性において他者との関係が成されてしまう。そうした実践的な限りで因果性が連鎖する。
「存在よりも先に政治がある」関係性は内在するのかも?
潜在的にアプリオリにひとは既婚者たるべきかのようにドゥルーズは考えているのではなかろうか。肯定をしあうことの極まりとしての結婚をメタファーに用いる。つまり相互肯定による共−存在を規範化していないか。
著者は異なる考えを唱える。生成のみにおいてセルフエンジョイが可能ではないか。または信頼においてアポステリオリに群島的でありえるのではないか。また規範化ならざる間柄も共立するのではないか。
このような考えジェンダー論が進んだ現代人に共鳴しやすいと思う。しかし個人的にはドゥルーズのアプリオリ性は捨てがたい。孤独を愛するというのはどういうことなのか理解できていない。多様性を磨く感性が足りていないのだろうなぁ。