鉄道の噴煙が松を枯死させた。
この一文で知られる大審院判決(大正2年12月18日)は、明治期日本における「権利の行使」と「不法行為責任」の限界を問う、象徴的な事件である。
事案自体は些細だが、この判決は近代民法における倫理の導入という点で、現在も深い示唆を与える。
1 近代民法の前提――権利行使の絶対性
当時の法理は、「法律に基づく権利の行使であれば、結果的に他人に損害を与えても不法行為とはならない」と考えられていた。
つまり「権利の行使は常に正しい」という近代的な自由主義の信念が前提にあったのである。明治末期、日本社会は産業化の進展により「私有権絶対」思想が強まり、個人の権利行使が社会的影響を無視して拡大していた。
信玄公旗掛松事件は、こうした“近代の光と影”を背景に現れた。
法は経済発展を支える装置として設計されていたが、そのなかで「隣人の被害」は誰が救うのかという問題が生じた。
この事件は、まさに近代民法が初めて「他者」を見つめ直した瞬間である。
この事件で裁判所はその絶対性に初めて亀裂を入れる。
判決は次のように述べた。
「凡そ社会的共同生活をなす者の間に於いては、一人の行為が他人の不利益を及ぼすことあるは免るべからざる所なり。
然れども、社会観念上、被害者に於いて認容すべからざるものと一般に認められるときは、不法行為と為すを相当とす。」
すなわち、行為が社会通念上「受忍限度」を超えた場合には、権利行使であっても違法と評価されうる――。
ここに、近代民法の形式主義に対する初の倫理的制御が現れた。
2 「権利濫用」への道を開く
この判決の射程は、単に不法行為法にとどまらない。
ここで萌芽的に示されたのは、後の「権利濫用」概念の基礎である。
それまでの法体系では、行為が違法かどうかは「結果(損害)」で判断されていた。
だが本判決以後、行為そのものが社会的に相当であるかどうかが問われるようになった。
つまり、違法性は結果ではなく行為の性質に内在する。
この「行為不法」の発想こそ、法が倫理へと接続する契機となった。
のちに権利濫用法理として明文化されるこの思想は、
「公序良俗」という倫理的基準が、権利の内部に浸透していくプロセスの第一歩であった。
3 現代への継承――景観利益判決(最判H18.3.30)
この系譜を引くのが平成18年3月30日の最高裁判決、いわゆる「景観利益事件」である。
同判決は、良好な景観を享受する利益を「法律上保護に値する利益」と認め、
行為の相当性を次のように判断した。
「侵害行為が刑罰法規や行政法規に違反するものであったり、公序良俗違反や権利濫用に該当するなど、
社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが必要である。」
つまり、行為が法的に許されるか否かは、
単なる法条の文言ではなく、社会的相当性という倫理的評価に委ねられる。
信玄公旗掛松事件の精神は、百年を経てなお息づいているのである。
4 司法書士実務への示唆
この判決が扱ったのは「権利と社会の関係」であり、
その問題は現代の司法書士実務にも通底する。
後見・任意代理・死後事務――いずれも形式的には適法な行為であっても、
その結果として本人や家族の生活を傷つけることがある。
法的には正しいが、社会的には冷たい。
そのような矛盾の中で、司法書士は「権利の行使」と「社会的信頼」の境界線を日々引き直している。
信玄公旗掛松事件の示した思考は、この葛藤に直接応答する。
すなわち、法的権限の行使であっても、社会通念上受け入れられない場合には違法である。
司法書士は制度の運用者であると同時に、制度の倫理的翻訳者でもある。
5 法の内なる倫理としての「公序良俗」
この事件は、法の外側から倫理を持ち込んだのではない。
むしろ、法の内部に「公序良俗」という形で倫理を内在させた点に独自性がある。
公序良俗とは、単なる道徳ではなく、法秩序が社会の共生を維持するための生きた境界線である。
権利濫用とは、この公序良俗が権利行使の場面で立ち上がった現象にほかならない。
司法書士がその境界を感じ取りながら業務を行うとき、
それはもはや「登記の専門家」ではなく、「制度と生活の倫理的媒介者」としての実践となる。
この視点こそ、AI時代の法実務において最も求められる感性である。
現代の司法書士実務でも、権利行使の裏に社会的影響を伴う場面は少なくない。
たとえば高齢者の財産管理において、適法な売却行為が地域の人間関係を断ち切ることもある。
また、相続登記の義務化により、形式的権利の執行が「共同体の再編成」を促すケースも出てきている。
法が機能する場には、つねに他者がいる。
信玄公旗掛松事件が提示した「社会通念」という軸は、
いまも司法書士の判断の根底で息づいている。
6 おわりに──「法の正義」を生きるということ
鉄道の煙に枯れた一本の松の下に、法の正義が眠っている。
信玄公旗掛松事件が問いかけたのは、
「法は人間の社会的感情をどこまで包摂できるか」という問題である。
権利の行使が、他者との関係を壊す行為になったとき、
法はその手を静かに制止する。
そのとき働くのが、法の中の倫理=信義則・公序良俗である。
司法書士という職能が、この“法の呼吸”を感じ取る限り、
制度はまだ人間のものであり続ける。
それこそが、百年前の判決が今も語りかけるメッセージなのだ。







