業務トピック

司法書士相談業務 他者との共存

思考の限界に触れるとき思考は思考の外に触れるのか。そうすると思考は外を捉えてしまう。即ちそれは思考の内でありうる。思考の枠外は在るがそれは思考が及ばない無の影であって主体なき在るが在るのである。そのような端的な在るとは別の形で到来するのが他者。主体性を他者は呼び覚ます。経験不可能な到来である。あらゆる生き物が在るを捉えるとき、同じ仕方で存在を捉えると果たして言えようか。現象は各々において現れるのである。
そして他者の顔の到来は、ひょっとしてを運動し続けさせる。他者は捉えられない。その捉えられなさは欲望をもたらし、可能性という仕方で愛を覚醒させる。他者を受容するとき、理性は呼び覚まされる。他者に向けての運動が徹底的受動性を喚起する。理性は他者への行動を促す。他者の顔は私に到来し続け、私は受動的な瞬間に立ち会う。このとき、私には他者への方向性が出現する。あり得ないものへの向かうこと。それは応答せざるをえない存在という私にとっての過剰が生成されてしまうが故だ。そして、私が聞く前に常に応答が先立つ。「はじめに言葉があった」とは反時間的な隔時性とも言い得る。そのような応答を要求する声とは「汝、殺すなかれ」を響き渡らせる。なぜならその在り方には常に痕跡があり、決して抹消することは叶わないからだ。純粋な可能性が永遠化する。これはデリダのいう赦しの不可能性とよく似ている。殺すことは赦しへの可能性の抹消であり、痕跡を消せないことの永遠化である。悪魔を赦すという不可能性に出会うからこそ殺すことは禁止されるのだ。

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