業務トピック

動機の錯誤の不可能性と道義的責任

動機の錯誤は、その動機が表示されている場合に限って、取り消し対象になります。

動機→内心的効果意思(やろうと思う)→表示意思(やろうと言おうと思う)→表示行為(やりますと言う)という流れで意思表示は行われるとされます。

動機は、表示されなければ、取引の相手方はわからないので、その表示を求めることは取引の安全性について必須であろうかとは思います。

これはこれで良いと思いますが、問題は、動機がそもそも認識可能性が乏しい場合であっても、「非難される」点です。

取引の安全からすれば、表示の要求自体は致し方ないのですが、動機について、いつも人間は認識していますでしょうか。仮に認識したとして言語化されてますでしょうか。

甚だ疑問です。

表示行為を行えば、その表示について意思能力があれば、契約は成立します。

取引の安全の為に必要でありますが、問題は、そこではないと思うのです。

契約の責任は、行為において伴うわけですが、これは法律の話であって、道義的に責任を負うかは別問題であろうかと思います。

しかしながら、動機が認識不可能である場合においても、法的責任だけではなく、道義的責任も追及を受けます。

卑近な例ですと、例えば、ついつい余計なものもコンビニで買ってしまったなんて経験は誰でもあると思います。買うことを理解して認識していますし、コンビニの店頭で動機の表示はまずされませんので、買ったことを取り消す余地はないでしょう。

この後、これを買って家に持って帰ってきたときに、家族に「そんな、余計なものを買って」との非難を受けるとします。

取引の安全の為に、「やっぱり買ったはなしね」は無理なんですが、余計なものを買った理由は「ついつい」ということになると、ここには、そもそも動機についての認識がないことになりえます。

動機の形成については恐らく相当複雑なメカニズムが実際にはあると思いますが、大きく三つに分かれると思います。

自分でやるぞ!という場面、やらされるという場面、そのいずれでもないという場面です。
やらされる場面においては、他人は同情的です。買ってこないと殴られるなら、買ったこともやむなしとなるでしょう。

自分で買う必要性があったなら、それはそれで、自分で買ったんだから、いいでしょう。

問題は、そのいずれでもない場面です。

「なんとなく気づいたら買ってた。」

だったり

「買わないといけないような気がした。」

など。

この場合、外部的に強制されることもなかったわけですし、自分で買いたいぞという動機もなかったわけです。勝手に醸成された動機によって、無意識的に行ったと言える場面かと思います。

この場合、非難は、空振りに終わる可能性を否めません。

なぜなら、本人は、その動機自体の正体を認識していないので、改める方法がわからないのです。

法律の関係のご相談は、法的責任があるか否かという観点で語られます。

これはこれでよいと思います。

ただ、そのときに合わせて道義的な問題もくっついてくる点です。

認識不可能な状態で、道義的責任を問うても、あまり意味はないでしょう。

認識可能性を生じさせた結果、自己省察することで後悔を生むということはありえようかと思います。そうであったとしても、少なくとも認識してからでないと、非難したところで、無意味ではないでしょうか。

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