動物に関し、
1単にモノとみる。(動物は守られる存在ではない)
2人間「関係」の義務としてみる。(動物を大事にしないことは人間に影響がある。消極的保護。動物愛護法の立場。保護法益は社会的法益。)
3動物に対する義務としてみる。(動物は守られる存在である。積極的保護。動物には権利がある。保護法益は動物自体。)
という3つがあります。
一点目を採る人はまずいないと思いますが、二点目が現行法の考え方で、三点目が実際に犬を飼っている人の感覚に近いと思います。
飼っていない人の感覚は二点目の立場に近いと思います。
三点目の立場であっても、この保護の範囲については、犬や猫に避妊手術が推奨されていることを想像してみてもらえるとわかりますが、これを人間に行うとなると、激しい反対の議論があります。(ハンセン病問題等)
避妊手術を認めるのであれば、人間に準ずる扱いはしないことになります。
つまりは保護すべき対象であっても、どの範囲で保護を行うかは別の議論だということになります。災害避難所にペットを連れていけるか否かで議論が生じるのも、人間に準ずる扱いをすべきではないという議論がある為です。
人の保護の基準と動物では異なることにまず問題点があると思います。
成年後見制度において、ペットを飼いたいが管理ができないという場合、まず問題になるのが、本人がどうしたいかというのは、個人的な人格権に基づく法益かと思います。
この権利と犬の保護性が衝突する場合、一つの考え方としては、どちらが全体の幸福に資するかという議論があります。
ただ、この幸福が、人の幸福としての犬なのか(ペットを飼いたい人間の権利)、犬自体の権利なのかは、人によって議論があると思います。
先の議論の通り、犬自体を保護法益として現行法は捉えていません。
とすれば、法律上の捉え方として、人の幸福としての犬であれば、本人の幸福追求権に資する方が優先されるという理解になり、犬が一定の我慢を強いられることもありえますが、人間関係の影響を鑑みると(一番最初の議論です。犬を粗末に扱うことは、人を粗末に扱うことに繋がりやすいからダメだという消極的な捉え方)、巡り巡って本人の幸福にも資さないという議論展開もありえます。
動物を消極的な保護対象としてみた場合(人間関係において保護するという)でも、管理不全を許すことが、本人について周囲の心象を悪くし、人間関係に悪い影響を及ぼすので、本人に対する周囲の支援のレベルが無意識的に下がる懸念を払しょくできないという問題もありえます。
とすれば、この問題を払しょくすることが望ましいとの見方も可能だと思います。
ただ、このように成年後見制度の枠組みで全体を見ることは、意思決定支援そのものとは反します。
しかし、個人的には、あまり絶対視する必要もないと思います。身体的自由などと異なり、意思決定を実現することでの不相当さが検討されてよいと思います。
結論的には、犬がしかるべく保護されて、本人がしかるべく平穏に暮らせるのであれば、それがよいのではなかろうかと思います。
法律上の理屈としては、動物愛護という社会的法益が個人法益を凌駕していると判断してもよい場面は多々あると思います。