破産原因の非再現性
裁判所は、破産をするに至った原因について、再現性のないことを求めます。
ギャンブルが原因であるなら、またギャンブルしないといえる状態かを確認したいわけです。
これが除去されていなければ、今回破産したとしても、また同じことになるのではないかと法は危惧するわけです。
破産法上は、免責不許可事由といい、浪費など債務について本人の帰責性がある場合には、免責(債務の支払い義務をなくす)許可が下せないという理屈になっています。(一方で、重い病気になって働けなくなったなどであれば、本人に帰責性がないと考えられます。)
破産に至る経緯の中で浪費が全くないという人はむしろ稀です。
そこで、破産法は、免責不許可事由があっても「今回だけですよ」と裁判所が裁量で免責できるとしています。もちろん、好き嫌いで裁量権を行使するわけではありません。
裁判所としては、その帰責性たる部分の原因について除去されているといえれば、免責できると判断しやすいので、この点に着目するわけです。
帰責性の問題
帰責性があると考える根拠は、ご本人がそう判断して自分で行ったからだという考えです。
破産法だけではなく、民事法の一般原則として、意思のないところ、その契約は無効であるとします。
法律がいう意思というのは、契約という行為の結果を理解する力のことで、この理解がなければ、その契約の義務を負担する根拠がないと考えるわけです。
帰責性は、この考えが前提にあります。自分でパチンコ屋に行って、ギャンブルすることを理解して、勝ったり負けたりする。これは本人もわかっていたことだ。本人には意思がある。その結果、その行為の責任を本人は問われるということになるわけです。(この世界観では、意思(行動の理解)と、意志(意識的に行動を起こす根源)は、ほぼイコールの関係です。)
ギャンブル依存症に帰責性はあるか
ところが、ギャンブル依存症であった場合どうでしょうか。
上記の理解によれば、本人はギャンブルを理解した上で、ギャンブルしているわけですから、本人の帰責性が高いという理解になると思います。
裁判所も基本的にはこういう理解の傾向にあります。
しかし、実際問題として帰責性はどこまであるかというと、疑問があります。
なぜか。それは依存症の方のギャンブル行為について、本人の「意志」がどれだけ介在しているかについて疑問であるからです。(本人の意思(行動の理解)はあるが、意志(意識的に行動を起こす根源)について疑問。)
近代法は、人間の意志の力を前提としています。
神の意志や、王様の意志によるのでなく、市民それぞれの意志によって、あらゆる活動がなされていく。
基本的に人間の活動は自由であるという近代法の精神があります。
これは、中世の王様による統治や封建主義を打破し、市民が自由な活動を行うにはとても大事な考えであったと思います。
ところが、常に人間の意志が及んでいるなら、依存症など存在しないはずです。
ギリシャの哲学者ソクラテスは、人間は自分が善いと思ったことしかしない。客観的に見て善くないことをするのは、それが悪いことだと知らないからだといいます。
ソクラテスに言わせれば、依存行為は、それが悪いことだと、本人は、本当の意味でわかってないからだと解釈することになりましょう。
だったら、わかったら止められるのか。
そんなに簡単なら、やっぱり依存症になんかならないでしょう。
とすれば、依存症は、人間の意識・意志が及ばない領域について問題になっていると言えるはずです。
人間が意志によってコントロールできうるのは、意識の世界ですが、人間はとても複雑で無意識の世界の方が圧倒的に広いと言われています。
依存は無意識の範疇のことであるので、自分で決めたことではありません。
無意識の発見は19世紀の心理学の祖であるフロイトによりますが、その後の心理学の発展、脳科学の発展により、無意識がいかに広いかについて学術的な説明がされてきています。
それより前も、西洋では17世紀の哲学者スピノザ、東洋では仏教などが、意識・意志の影響力はとても小さいと指摘しています。あらゆる学問の祖といわれるギリシャ哲学のアリストテレスも、理性によるコントロールの困難さを指摘しており、欲望は、習慣によって治める必要性を指摘しています。(ギリシャ哲学では、そもそも意志という概念すらありません。)
このような自分ではコントロールできない領域にあるギャンブル依存症については、医療による支援、自助グループによる支援を必要としています。
人間が意志によって可能なのは、これら支援を求める行動を起こすことです。
病院や、自助グループに行くことは本人の意志なしに実現しません。
ですので、ここは裁判所も求めたいところだろうと思います。
しかしながら、依存症についてご本人の帰責性が高いかというと、そんなことは本当はないと私は思います。
再生の道を歩むとき、意志ではなんともならない日も決して少なくないでしょう。
ただ、それは必ずしも帰責性があるとは言えないはずです。
無意識に支配された自分を責めることなく、意志によってできることだけを励む。それが再生への道ではないかと思います。